くらしをつくる人NOTE
2022.9.29
いざ東京へ
晋吾さんが独立した頃はバブルが崩壊した厳しい時代。
周りの人からも何でこんな時に独立するの?って言われたそうです。
産地内の窯元の従業員もリストラされているような厳しい環境だったそうですが
お子さん2人を育てるには独立するしかない!と一念発起。
今みたいに独立したらすぐに作品を置いてくれるギャラリーがあるわけでもなく、
そもそも「うつわ作家」の黎明期であったことから、ご自身で販路を開拓するしかありませんでした。
今では想像できないですが岡さんがリュックサックに焼き物を詰めて向かった先は東京。
そこでの出逢いが「陶芸家」岡晋吾を焼き物への道へと導いていくのです。
晋吾さん「多分自分が一番初めだったんだよ、東京行って営業した有田のうつわ作家は。
俺がリュックサックにうつわを詰めて、売り込みに行った時は他には誰もいなかったと思うよ」
金子「岡さんにもそんな時代があったのですね。どちらに営業に行ったのですか?」
晋吾さん「青山も行ったし、渋谷も行ったし」
さつきさん「その時に楓さん(青山にある“うつわ楓さん”のこと)にも行ったの?」
晋吾さん「楓さんは若い陶芸家が繋いでくれたんだよね。
楓さんが岡さんを紹介して欲しいって言ってくれていたみたいで。
その陶芸家が紹介してもいい?って言うから、いいよ!お願いって伝えて。
最初に取り扱いして頂いたのは銀座のたち吉だったなあ。
その後は銀座のおかりやさん。
おかりやさんは、陶芸家の荒木義隆さんが紹介してくれたんだよ。
荒木さんとはベトナムに一緒にいったこともあるんだけどね。
ある時、知人が荒木さんと自分を繋いでくれて、荒木さんに会いに作品を持って京都まで挨拶に行ったんだよ。
そうしたらいきなり “岡くん、この磁器はどこの土?” って聞いてきて、
それは僕が作った土なんですって言ったら
“売ってないの?” って言われて、売っていないっていったら、
“じゃあ、教えられないよね?” って 笑
そんな会話をする中で自分に興味を持ってくれたみたいで荒木さんがおかりやさんと高島屋さんを紹介してくれたんだよ」
さつきさん「一番長いのが高島屋さんよね。子供たちが小さい頃から出稼ぎに行っていたわ」
晋吾さん「その後に東京での展示会に料理雑誌の編集長が来てくれて、また別のギャラリーを紹介してくれたんだよね」
金子「人とのご縁がつながったことがきっかけで、独立してすぐに販路を築くことができたのですね」
晋吾さん「今みたいに地方での工藝の展覧会なんてなかったから、自分でギャラリーを見つけるか誰かの紹介が無いと入り込むのが難しかったんだよね。クラフトフェアも無い時代だし。
チャンスが全然無かったよね。今の若い作家さん達はいきなりギャラリーで個展できちゃうでしょう。でも、自分たちが若い頃は個展だけでは食べられないから、問屋の仕事で食いつないでいたんだよ」
金子「そうですよね。今は本人が作家と言った日から作家になれちゃう時代なのかもしれません。
晋吾さんは産地に近い所にいらして、職人さんとして生きて行くという選択肢もあったと思いますが、何故作家の道を選んだんですか?」
晋吾さん「それは簡単!子供が生まれたから(笑)
当時は職人だと給料が少なくて育てていけないから2人目が生まれてすぐに独立したんです。
その前は契約社員みたいな形態をとって、フリーでやっていたんだよね。
先生(志の島忠さん)との仕事があったからフリーでいる必要があったんですよ。
先生と一緒に出張することも多かったからね」
金子「先生との仕事が終わった後に窯に入ったんですか?」
晋吾さん「そうそう。そして独立したんです」