くらしをつくる人NOTE
2024.11.1
第18回目は、東京都福生市でものづくりに励む「造形作家」水田典寿さんです。
水田さんの作品を初めて拝見した時、今までにない不思議な感情が沸き上がってきました。
死生観を強く感じる水田さんの作品を目の前にして、その出会いにとても興奮しているはずなのに心が静かなのです。
陰を愛でることのできる日本人の感性を呼び覚ましてくれる静かに熱をもった作品がどのように生まれているのか。
その秘密に雨晴の金子が迫ります。
お爺ちゃんっ子
水田さんのアトリエに入って、初めに目に飛び込んできたのがこちらの壁。
何やら、沢山の魚の名前が一面に書かれていますね。
水田さんのお爺ちゃんがかわいい孫に魚の居場所やその特徴を教えるために書いてくれたそうです。
お爺ちゃんっ子だったという水田さんは、近くの多摩川に一緒に釣りに行ったり、工作や絵を描くことをお爺ちゃんに手伝っていただいていたそう。
少年時代の純粋なものの見方を大人になっても持ち続けていることが
作品の魅力に繋がっているのだと今回のインタビューを通じてあらためて知ることに。
今見えていることが全てではないということを自分も気が付くことのできた素晴らしい機会となりました。
日々忙しく過ごされている皆さんにも是非、このコラムを読んで頂きたいと思います。
若者の全て
こちらの写真は水田さんがユニット作家として活動していた頃のもの。
元々家具などを作ることが好きだったという水田さんは制作の幅を広げることを目的に職業訓練学校で溶接を学びます。溶接というと専門職のイメージが強いですがその学校では造形的なアプローチでの鉄との関り方を学んだ水田さん。卒業後は学校の紹介で工房に勤めることになります。
そこで出会ったのが後にユニット作家の相方となる小林寛樹さん。
二人は感性を共有しながら、クラフトフェアやギャラリーでの展覧会を通じてぐんぐんと知名度を上げていきます。残念ながらユニットとしての活動は終了していますがその頃からの積み上げが今の水田さんを形成しているのだと教えて頂きました。
金子「水田さんは、作家志望でものづくりの世界に入ったのですか?」
水田さん「作家になるつもりは全然なかったんですけど、ものづくりが好きだったこともあり職業訓練学校の金属造形科を卒業しました。その時期に知り合った彫刻家の方が廃材を用いて作品を制作していて、すごくかっこいいなと思ったんです。その出会いも自分にとっては大きな出来事でした」
金子「工房勤めをしながら、個人の作品も制作されていたのですか?」
水田さん 「はい。仕事が終わってから自分の作品を創っていました。まだ若かったので夜遅くまで制作に打ち込んでいましたね。その時に一緒に働いていたのがユニット作家として活動した相方なんです」
金子「そうなんですね」
水田さん 「それぞれが工房を辞めた後、独立するなら道具を共有した方がお互い都合がよかったし、何より自分は相方の作品が好きだったんです。互いの好みも似ていたので一緒にやろうとなり、ユニットを組むことになりました」
金子「その後、作家としてご飯が食べられるようになったきっかけはあったのですか?」
水田さん
「いやあ、今もそうですけどコツコツ続けている中でという感じですね。
青山にあったギャラリーを借りて、二人で展覧会をやったんです。当時はSNSも無いのでインテリア雑誌の編集部にDMをお送りして(笑)。そうしたらいくつかの媒体の方が来場されて、雑誌にも掲載してくださったんです。その後はギャラリー側から企画のお話を頂けるようになって。
そういうのを繰り返していく中で展覧会や内装の仕事が増えてきて作家として生活ができるようになっていきました」