くらしをつくる人NOTE

Vol.14
2022.5.6
Vol.14 陶芸家 田中信彦さん <POP!!編>

ラストピースは感性

中根さんの下で「技術」を更に磨き、ルーシー・リーの作品から「感性」を刺激された
若かりし頃の田中さん。

八風窯での勤務を終えた田中さんは
吉祥寺にあった「アトリエ飛行船陶芸研究所」で陶芸教室の講師として働きはじめました。

この教室の所長だった「陶芸家」板橋廣美さんとの出会いが
田中さんの陶芸家としての「感性」を磨くきっかけとなったそうです。

金子「中根さんのところを出た後にすぐに独立されたのですか?」

田中さん「大学時代によく通っていた、益子に行くつもりだったんですけど、資金がなかったので実家に戻ってから吉祥寺にあったアトリエ飛行船陶芸研究所に勤めることにしたんです」

田中さん「その所長だった板橋廣美さんとの出会いがとっても大きかったんです。
ものづくりって、取り入れたものを咀嚼して何らかのかたちで出すものだと思うんですよ。

それまでは“どう出せばいいのか”とか、“どこから出せばいいのか”がわからなかったんですけど板橋さんの下で働く中で、自分が貯めてきた技術とか感性をどう出したらよいのかを掴めたんですよね。

飛行船の3年間があったからこそ、今も自分が陶芸を続けられているのだと思います。

板橋さんが“やきものを作るには技術と知識と感性の3つが揃わないとだめだよ”ってよくおっしゃっていて。技術は京都の訓練校や中根さんから学び、知識は自分で勉強したりしていたけど、“感性”の部分は微妙だったんですよね」

田中さん「板橋さんの作るものはオブジェなんですけど美的感覚がとにかく素晴らしくて。

それに加えて、吉祥寺の教室には芸大や美大を出た人やデザイナーさんなど、センスの良い方がたくさんいらっしゃったんです。
その方達に教える立場になってプレッシャーもあったんですがそういう方々の感性を吸収することができたのもすごく大きかった。

ルーシー・リーを見て衝撃を受けてから、時間もかなり経っていたんですけど
それをどう出していくべきか、飛行船で働くまではわかっていなかった。

3年間、板橋さんや生徒さんの感性に触れることで自分自身の感性も磨くことができたのだと思いますね」

金子「そうだったのですか」

田中さん「ずば抜けた感性を持っている天才の人っていると思うんですよ。
技術とか知識がなくてもそういう人って無意識にすごいものを作れてしまう。

でも自分はそうじゃないから。“感性を外部から取り入れて、かたちにしていかないと”って気が付いたんです」

色のうつわが生まれる

技術、知識、そして感性を様々な出会いから学んだ田中さんは満を持して独立しました。

初めは陶器の作品を中心に制作されていたそうですが、学生時代にたまたま出すことのできた銅の釉薬の「赤」を追い求める中で、色のうつわの原形が生まれます。

金子「色のうつわはどのように誕生したのですか?」

田中さん「明確に色のうつわを始めたきっかけというのは無いのですが
陶芸サークルの時に銅の赤が偶然綺麗に出たことがあって、いつかまたこの色を出せたらと断続的に試験をしていたんです」

金子「銅の赤ですか」

田中さん「色のうつわは12,3年前に始めたんですけど、最初は銅の赤だけだったんです。白いうつわの縁にほんのり赤が出ているというのがスタートでした。それまでは赤土を使った土ものをメインでやっていたんですよ。その辺りから自分の中にあったルーシー・リーからの影響がかたちになってきたんじゃないかなあと思います。

その赤に青が加わって、次に緑が加わってみたいに次第に色の数が増えていく中で
色のうつわができあがっていったんです。それもここ7,8年のことなんですよ」

金子「陶芸歴の中でいうと割と最近なんですね」

田中さん「それまでの僕は個展の度に雰囲気が変わるような作家でした。
右往左往していた時に、作風を定めてくれたのが色のうつわだったんです」

4/5
POP!!