くらしをつくる人NOTE
2020.12.15
料理人か彫刻家か
一年浪人することになった釋永さん、元々料理好きだったこともあり料理人の道も考えますが
お父さんに一刀両断されてしまいます。
釋永さん「結果、一浪することになるんですけど、その時に料理人になるのもいいかなと思って父に相談したんです。僕は元々料理も好きで中学校の修学旅行先の京都では有次さんで出刃包丁を購入するほどでした」
金子「渋い中学生ですね(笑)」
釋永さん「でも父には何となくわかったんでしょうね。
“そんな中途半端な想いじゃバックアップできない”と一刀両断されてしまいました。
“芸術の道であれば応援するよ”といわれて一年間予備校に通わせてもらうことになって、
東京藝大に入学することができました」
金子「大学では何を学ばれたのですか?」
釋永さん「興味をもったのは陶芸じゃなくて、彫刻だったんです。
大きな土のかたまりをぶつけて、人の顔を作るみたいなことが好きで具象彫刻を作っていました。
当時の藝大は大巻伸嗣さんとか今では世界中を飛び回っているような先生や諸先輩方が出入りしていたような環境。同級生たちもその道を志して大学院に行くことを選ぶんです。
でも、自分は大学院に行った先のことが想像できなくて、、、
ある時から休日になると日本橋の骨董街を歩くようになりました」
土の仕事
骨董街を巡り続ける中、
釋永さんは一つの陶芸作品との出逢いから、ご自身の進む道を決めることになります。
釋永さん「壺中居さんや繭山龍泉堂さんみたいな、入るだけでびちょびちょに汗をかくようなお店に通っていたんですけど、みなさん優しくしてくださったんです。壺中居さんにはお茶道具を出すのをお手伝いさせて頂くまでになりました」
金子 「それは凄いですね」
釋永さん「ある日、備前焼の金重有邦さんの花入れを拝見したのですが
こんなに彫刻的なことを陶芸、しかも轆轤で表現できるんだと驚きました。
僕の実家も焼き物屋。
身近に「土」という素材があることに気が付いて、土があれば陶芸もできるし彫刻もできる。
だったら陶芸で飯を食っていこうと思うことができたのです」
桝田さんとの出逢い
陶芸の道を志すことを決心した釋永さん。
大学卒業後は京都の訓練校に通い陶芸に必要な轆轤の技術を習得しました。
その後、ご実家に帰ると、土作りと薪割りの日々が始まります。
金子 「お父さんのところで、一緒に陶芸をされたことはあったのですか?」
釋永さん「実家に戻ってからの3年間は山での土掘りから始まる土作りと薪割りをしていました。
それくらいしかやれることがなかったんですよ。
僕が作るものは全く売り物にならないので、小さいものを作って、父の窯の隙間に詰めて試しに焼かせてもらうという日々が続いていました」
金子 「そんな時代があったのですね」
釋永さん「全てが人に頼りっぱなしの人生で腐っていたんです。自分が作りたいものも作れないから
だんだんストレスもたまってくるし、、、
奥さんとも付き合いも長くなっていたので、そろそろ結婚したいという想いもあって。
その時はもう焼き物をやめようと考えていたんです」
順風満帆な陶芸家生活が始まるかと思いきや、またもや壁にぶつかることになった釋永さんに
運命の出逢いが訪れます。
釋永さんが住む東岩瀬の名士「桝田酒造社長」桝田隆一郎さんは釋永さんのお父様と旧知の仲。
ある時お酒を持ってご実家にやってきたそうで、
釋永さん「桝田さんが、“釋永さん呑みましょうよ!”みたいな感じでうちの父を訪ねてやってきたんです。
そうしたら“岳くんさあ、そんなおっきい体して、藝大も出たのにチマチマしたもの作っていていいの?” って酒飲みながら絡まれたんです(笑)」
金子 「(笑)」
釋永さん「言われることが全て図星で、ショックすぎて、、、
桝田さんに“実家を出ないとだめだよ。父ちゃんの言うことなんて聞かなくていいんじゃない?
僕さあ今、町を作ってるんだけど、見に来ない?”って15年前に言われたのが東岩瀬に来るきっかけになったんです」
金子 「町を作っているって、話のスケールが大きいですね」
釋永さん「妻と二人で遠足みたいな感じて見に来て、解体してぐちゃぐちゃな状態のこの家を見せてもらって
“君さ、僕が工房作るからさ、自分の稼ぎで100%ものを作るってことをした方がいいよ。
逆境を自分で作ったほうがいい。岩瀬移り住んでやらないかい?“って言われて
3か月くらい考えてみたんですけど、こうなったら自分に得があるのかとか
色々と考えるのが面倒になって、”ええい、飛び込んでしまえ!”と思って岩瀬に行くことにしたんです」