くらしをつくる人NOTE

Vol.6
2017.4.09
陶器工房 壹 壹岐幸二さん

琉球王朝のうつわ

大学に入学してすぐ、大学時代の恩師であり、のちの師匠でもある大嶺實清さんに連れられて博物館に行かれた壹岐さん。
そこで見たものは、沖縄が独立した国だった頃の古陶。

壹岐さんから焼き物についてお話を伺う時に必ず出てくるのが、琉球王朝時代のうつわのこと。
時には図録を見せていただきながら、当時の沖縄の焼き物の技術がいかに高かったか、意匠が優れていたかを熱弁してくださいます。

金子「壹岐さんにとっての沖縄のうつわの魅力を教えてください」

壹岐さん「沖縄のうつわもいろいろあるけれど、琉球王朝時代のものに自分は魅かれるなあ。王朝が作らせたものって、品格があったり、形が素晴らしかったりするんだよね。
大学に入ってすぐに大嶺さんが博物館の倉庫で沖縄の古陶を見せてくれて、
実際に触れることもできたんだよ。それにいたく感動した」

金子「どのくらい古いものなのですか?」

壹岐さん「だいたい16世紀から19世紀前半くらいまで。琉球王朝ができてから廃藩置県までだね。
当時の沖縄の陶器は、後の民芸運動の一人者、濱田庄司氏に「卵の殻のような白」と絶賛されるほどの品の良い白地の化粧仕事があったんだけれども、反面とても欠けやすいという欠点もあったんだ。
廃藩置県後に内地の評論家がそれを酷評して、四国の大工場から大量の磁器が沢山入ってくることになる。それに押されて壺屋は瀕死の状態になった。
※壺屋(つぼや)とは、那覇の国際通りにほど近い焼き物の町の名称

その後、日露戦争や第一次、第二次世界大戦が起こり、その間に沖縄の焼き物の技術的伝承の困難な時代を迎えたんだよ。
太平洋戦争前から沖縄の焼き物は柳宗悦を中心とした民藝運動に見いだされたわけだけど、彼らが感動したのはやはり王朝時代のものだった。
その頃は技術が変遷を経た後であったため、王朝時代のものとは異なる民藝という形で沖縄の焼き物が方向づけされていったような印象を受ける」

金子「そういう歴史があったのですね」

壹岐さん「俺が沖縄に来た時の国際通りには、魚が描かれたどっしりとしたうつわばかりが並んでいた。これが沖縄のうつわなのかなと思ったよ。
でも博物館で王朝時代の湧田焼や白化粧を施した卵の殻のような白い焼き物を見て、これなら作りたいなと思ったんだ。戦後主流となった民藝の思想は素晴らしいものだと思うけど、自分は王朝時代を意識したものづくりを続けていきたいと思っている」


沖縄でうつわを作るということ

壹岐さんの工房は2016年に20周年を迎えました。

大学卒業後、研究生の時代を経て、大嶺工房での5年間の修業の後に独立。
うるま市に居候状態で工房を開窯しました。

その後、長浜にある古民家に併設された牛小屋を改装して13年間作陶に励み、
現在の工房に移ることになります。

昨今、沖縄の焼き物はブーム的な状況ですが、壹岐さんが独立した頃はいまのように沖縄のうつわも認知されておらず、作り手にとって厳しい時代でした。

そんな状況にも関わらず、開窯してすぐにお弟子さんを採用したという壹岐さん。
沖縄の陶芸は量産が基本で、数を作るためにはスタッフが必要。沢山ものは作るけれど品質についても妥協しない工房作りを目指していた壹岐さんのスタンスが表れているようにも思えます。

金子「大嶺工房に入ったきっかけは何だったのでしょうか?」

壹岐さん「大学卒業後、大嶺さんの研究生を1年やってたんだ。その頃には自分でも大嶺工房に行くと決めていたし、大嶺さんも来いと言ってくれていたから」

金子「当時の大嶺さんの作品の印象は、どのようなものでしたか?」

壹岐さん「圧倒的に確かで、強くおおらかなものを作っていた。彼がいなかったらいまの俺はなかった」

金子「修業時代は主に何を作られていたのですか?」

壹岐さん「登り窯を埋めるため大きな壺ばっかり。年間300本余り・・・。その頃は壺ってよく売れたんだよ。
ボーナスが出たから壺でも買おうか、そんな時代だった。
ところが独立した途端にバブルがはじけてさあ、壺なんか全然売れなくなって大誤算。
独立するまで小物を制作したことがあまりなかったから大変だったよ。食器は見た記憶と手探りで、でも修業中に大嶺さんの手元をひたすら目に焼き付けていたことが役に立ち、なんとか形にしていったんだ」

金子「お弟子さんを採り始めたのはいつからですか?」

壹岐さん「1年目からだよ。それがオキナワンスタイルと思ってた。
量産するためには一人ではできないしね。
いままで20人くらいの弟子を採ったよ。その中で一番長かったのは宮城陶器の宮城君。今月からまた一人新しい子が来たよ」

金子「それは楽しみですね」

壹岐さん「沖縄で独立してほしいと思っている。
結局、王朝時代に着眼したうつわは沖縄ではマイノリティ。やっぱり民藝が沖縄では人気だよね。
昔の沖縄にもクオリティの高い、いいものが沢山あったわけだから技術を磨いて、
当時のものに近いレベルの轆轤をひけるような人が増えればいいなと思っているんだ」

金子「壹岐さんは早くから東京に作品を出されていて、県外の焼き物のクオリティを意識されているのかなと思うのですが」

壹岐さん「いや、意識はしていないよ。周りを見なくても、ひとつの仕事を突き詰めていけば自分の仕事の完成度は上がると思っているから」

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陶器工房 壹