くらしをつくる人NOTE

Vol.15
2022.9.29
Vol.15 陶芸家 岡晋吾さん、さつきさん <有田編>

第15回目は、佐賀県唐津市で作陶する岡晋吾さん、さつきさんご夫妻です。

白瓷、染付、象嵌、色絵、安南、瑠璃そして唐津。
大陸や肥前地区にルーツを持つ焼き物をそれぞれの解釈で表現している晋吾さんとさつきさん。

日本の家庭料理の欧米化に伴い、“和食器” の定義が曖昧になりつつある今だからこそ、
お二人の作品の根底にある“日本の美”がより際立ち、沢山の方を魅了しているのではないでしょうか。

今回の展覧会のテーマが「二人組」ということでお二人の作品は勿論のこと
お互いを支え、引き立てあうその関係性にも雨晴の金子が迫ります。

前編をお二人の運命の出会いから晋吾さんの独立までを記した<有田編>
後編を天平窯が天平窯としての確固たる地位を築き今に至るまでを記した<唐津編>
として二部構成でお届けします。


想い出の天平窯

コロナのことが少し落ち着いて2年ぶりにやってきた天平窯。

いつものように晋吾さんとさつきさんが優しい笑顔で出迎えてくださいました。

天平窯へ僕が出入りし始めたのはかれこれ15年程前のこと。
当時は晋吾さんの作品の買い付けに年に一、二度お邪魔していました。

その頃のさつきさんは育児休業中。
窯のおかみさんとしてお弟子さんの面倒を見ながら、
僕が伺うといつも美味しいコーヒーとお菓子でもてなしてくれました。

そんな想い出がたくさん詰まっている天平窯でお二人にインタビューするのは
ちょっと照れくさいような気もしましたが、あらためて晋吾さんとさつきさんが
何故陶芸家を目指すことになったのか。

そしてお二人がどのように出会ったのかを伺いました。

金子「お二人が陶芸家になったきかっけを教えてください」

晋吾さん、さつきさん「きっかけ?」

と同時におっしゃる仲良し二人組。

晋吾さん「俺の場合は就職難民だったからね」

金子「晋吾さんは、大学で経済学を学んでいたんですよね?」

さつきさん「そう、計算高い男なんです(笑)」

晋吾さん「そうそう(笑)。就職先は決まっていたんですけどね。
自分にはその仕事が合わなそうだなって思って行くのを辞めたんですよ。

そうこうしているうちに、親父に知り合いの陶芸の絵付師を紹介してもらって、
見学に行ったんです」

金子「それは初耳です!楽しいインタビューになりそうです」

晋吾さん「焼き物のヤの字も知らない中、絵付けの仕事を初めて見て。
ああこういうものなのかって、少し興味が湧いて。

いざ、働いてみようと思ってもどうしたら雇ってもらえるかもわからないから
アポイントもとらずに何軒も窯元を回ったんです。
ある人から “窯業試験場で学んだ人じゃないと雇えないから、まずはそこに通った方がいいよ” って言われて。それで翌年試験場の中にある訓練校に入学して絵付けを勉強したんです」

金子「絵を描くのは元々好きだったんですか?」

晋吾さん「好きだったけどそれを仕事にしようとは思っていなかった。
というかそういう仕事があるって知らなかったんだよね」

さつきさん「そうだよね。田舎は特に情報が少なかったから」

晋吾さん「学校では下絵付けを3ヵ月、デザインを3ヵ月勉強しました」

さつきさん「私と一緒!(笑)初めて知ったわー」

金子「さつきさんも初めて知ったんですか(笑)」

晋吾さん「学校で作家を紹介してもらって卒業後はそこで4年間働いたんです。
轆轤はその時に教わったんですよ」

金子「え!そうなんですか!?それってプロフィールに書いていないですよね?」

晋吾さん「聞かれないから書かないよ(笑)」

金子「それは有田ですか?お弟子さんとして?」

晋吾さん「そう。有田にいた日展作家。弟子ではなくて従業員として働いていました」

さつきさん「有田はお弟子さんをあまりとらないんですよね。分業制だから従業員として働くことが多いんですよ」

晋吾さん「当時の陶芸家は、花器とかオブジェしか作っていなかったから自分もそういうものを作る手伝いをしていたんです。食器は窯元の仕事だったんですよ。作家と職人で作るものが違った時代だったんです」

金子「そんなにはっきりと役割が分かれていたとは知りませんでした」

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魯山人と土平さんに憧れて