くらしをつくる人NOTE

Vol.11
2018.07.02
陶房眞喜屋 眞喜屋修さん

古陶が先生

眞喜屋さんは元々絵を描いたり、ものを作るのが好きで高校卒業後、沖縄県立芸術大学に進学されます。
そこで工芸を意識するようになり、焼き物の魅力にひかれていきました。

        

在学中に強く影響を受けたのは、当時大学で教授をされていた陶芸家の大嶺實清(おおみねじっせい)さん。
眞喜屋さんは卒業と同時に弟子入りを志願し、大嶺さんの工房で修業をすることになります。

金子「大嶺工房での修業は、どのようなものだったのですか?」

眞喜屋さん「主に雑用と轆轤、そして大嶺先生の助手をしていました。
この頃、先生は大学で講義があったので、その間に轆轤を触らせていただくことができたんです。

先生は沖縄の古陶を持ってきては『これ、作ってみろ』、『いいものを見て、作って覚えろ』と感覚的なアプローチでお話をされていました」

金子「スケッチのようなものもないのですか?」

眞喜屋さん「ある時もあるんですが、抽象的な壺の絵とかそういう感じです。

最初は何をおっしゃっているのか全然わからなくて。
やっていくうちにだんだんと理解できるようになってきましたが、今度は技術が追いつかない。

そういう日々を繰り返すことで、『感じて作る』ことが身ついていった気がします。

大嶺先生はいつも新しいことを取り入れていらしたので、修業時代は本当に飽きることがなくて。
いつまでもいたいと思うほど、素晴らしい環境で修業をすることができました」

陶房眞喜屋

7年間の修業を経て、首里で独立した眞喜屋さん。

当時は、いまのような「沖縄のうつわブーム」はまだ起きておらず、開業して3、4年は眞喜屋さんいわく「食えない時期が続いていた」とのことでした。

そんな中でもひとつの強い想いがあったからこそ、陶芸を続けることができたそう。

金子「独立当初は、どういった作品を作られていたのですか?」

眞喜屋さん「古陶のアレンジから始めました。
絵付けの修業をしていなかったので、筆が走らなくて最初は上手く描けませんでした。

せっかく成形して作ったものを最後の絵でダメにしてしまうのが本当に嫌で、途中から描きたくなくなってしまって。

当時は、業者も買いに来ないし、自分でも売り込みに行かなかったので本当に厳しい時期が続いていました」 

金子「そういった中で、作品が動き出すきっかけはあったのですか?」

眞喜屋さん「絵付けもちょっとずつ描けるようになり、陶器市にも出すようになってからですかね。少しずつ動くようになってきました。

当時は、とにかく作品を作ることしか考えていませんでした。
そうしないと不安なことが多すぎて、自分を保っていられなかった。

余計なことは考えずにとにかく作る、そういう日々が続いていました」

金子「そのような大変な状況でも、ものづくりを続けられたのはどうしてですか?」

眞喜屋さん「初めて沖縄の古陶を目の前にした時、あまりに衝撃的で全てが吹っ飛ぶようなそんな感覚があったんです。

その良さを大学や大嶺工房で教えてもらったので、
これに近いものが作れるようになったら大丈夫だろうという漠然としたものが心の中にありました。

『ここに進めば道を誤らないだろう』と。

売れていない時はそれを目指して、図録などを写しながら作品を作ることに時間を費やしていましたね」

沖縄の古陶が修業時代は眞喜屋さんの先生となり、
独立後は支えとなっていたのだと知ることのできるエピソードです。

沖縄の古陶には個人的にも興味があって、骨董屋でたまに拝見するのですが、
日用のうつわとして使われていたものがこれだけ強く、優しいものなのかと驚かされます。

特に琉球王朝時代につくられていたものはクオリティが高いものが多く、マカイと呼ばれる茶碗を中心とした食器から酒器に至るまで、沢山の種類のうつわが作られていました。

手に持った時のしっとりとした肌触りや素朴な色み。
完璧に整った形ではないですが、おおらかさの中に繊細な部分も持ち合わせている。
ずっと眺めていたくなるような佇まいの美しい作品が多いと感じます。
素材の強さと人の手が加わったことで、にじみ出る柔らかさがとても魅力的です。

皆様も機会がありましたらぜひご覧になってください。
その魅力にきっと魅了されてしまうと思いますよ。

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花と藍